NBSの連載小説 第二弾

 

Episode13 思いがけない立候補(3月某日・雨)

各テナント1名ずつの防火管理者を選任しなければ、我が駅前テナントビルの消防計画は完成しない。しかも、来月防火管理者講習会が消防本部で行われるため、その申し込みに間に合わせる必要がある。河豚コースを食べながらの第一回共同防火管理協議会から数日して、僕は、選任の進捗状況を聞きに、未選任のテナントを回ることにした。テナントさんを直接訪ねるなんて、契約更新や設備の故障のとき以外ほとんどなかったのに、統括防火管理者になることになってから、急にその機会が増えたような気がする。
 4階の設計事務所は、消防署に提出するための図面を起こしてもらったため、すっかり顔なじみになっていた。ここの防火管理者は、図面を起こす作業を担当した僕と同い年で、僕と同じ吹奏楽部出身の元サックス奏者が、なってくれることになったと、「河豚の会」のあと、早々に連絡をもらっていた。隣のWEB制作会社からは、まだ連絡がきていないため、防火管理者募集のチラシ制作のお礼もかねて、まずはそこから訪ねてみることにした。
防火管理者になった僕 エレベーターを降りると、ちょうどWEB制作会社から、あの愛想の悪い事務員が、特大のコーヒーポットを手に出てきたところだった。
「こんにちは。社長はいらっしゃいますか」とにこやかに笑いかける僕に、事務員は無言+真顔で迫ってくる。僕は笑顔を凍りつかせたまま、彼女の気迫に押されて廊下をじりじりと後退していった。WEB制作会社のドアから離れ、給湯室の前まできたとき、ようやく事務員が口を開いた。
「すみません。社長は、徹夜続きで今お休み中です」。
かすかな東北なまりでそう言うと、給湯室の横の壁に手を伸ばし、防火管理者募集のチラシをベリッっと引き剥がした。グイと握られたチラシがゆがみ、写真のイケメン講師の眉間に、事務員と同じシワがよっている。
「…!」、ショックで口をパクパクさせる僕。
「こんなお金にならないことばかりしているから、徹夜で仕事をしなければならなくなるんですっ。これを作るのにどれだけ時間がかかるかわかりますか」と悔しげに言う。
「すすすいません」。
「責めているわけではありません。社長の性格だから仕方がない。私は社長について行くだけですから…。ここに書いてある防火管理者の資格は『転職にも有利』は、本当ですか?」。
「そ、その資格が仕事に活かせるかは別にして、『事務や総務的な仕事をする際は、人選のポイントになるはず』と、お宅の社長がおっしゃったことですが…」。
「わかりました。では、私がやることにします。事務員くらいしかできませんが、社長が倒れたときは、私が面倒をみなきゃならないので…」。
 今までは、テナントにどんな人がいて、どんな仕事をしているかなど、大して興味がなかった。家賃さえきちんと納めてくれれば、それでいいと。テナントには、それぞれの生業があり、ドラマがあり、そして愛があることを僕はこの事務員に教えてもらったような気がした。

 3階の塾はイケ面講師が防火管理者になることが決まっているので、次は2階の眼科に行ってみた。院長は 、待合室でパター練習しながら、「あのチラシで主婦のスタッフが何人かやってもいいと言ったけれど、たまたま一人、防火管理者の資格を持っている人がいましてね。なんでも、前の勤め先で取らされたって。うちは彼女で決まりです」と話してくれ、僕はほっと胸をなでおろした。
 隣の歯科の方は、眼科よりスタッフの年齢層が若く、イケ面にはそう簡単にほだされなかったとのこと。
「18歳の受付なんて、キモイとか言っちゃってさ」と、院長が困り顔で話していた。イケ面塾講師の守備範囲は、高めの年齢層なのかもしれない。「なんとかお願いします」と再プッシュして、次は1階のコンビニへ。いつもは、アルバイトばかりのコンビにだが、たまたま、首尾良くオーナーを捕まえることができた。河豚の日に「講習会に出席させるために、アルバイトにバイト代を払わなければならない」とごね始めたのはこの人だ。「大変申し訳ないのですが…防火管理者の選任の件で」と、僕は、不動産営業の経験をフル活用し、慎重に低い位置からアプローチをはじめる。「ああ、あれ。あれは…ちょっと!」、呼ばれて振り向いたのは、耳にピアスを無数につけている茶髪の若者だった。コンビニの制服を着ているのにもかかわらず、アナーキーな雰囲気を保持している。「こう見えてもまじめだから」オーナーの言葉を信じるしかない。僕は、防火管理者講習の日程をお知らせし、店にもどった。残すは、歯科のみ。

防火管理者になった僕 2日後の午後。店の自動ドアが開いたとき、僕は机の下に落ちたボールペンを拾っているところだった。店の決まりで、来客があったときは、全員立ち上がって「いらっしゃいませ」とにこやかにご挨拶することになっている。しかし、このときは我が社の紅一点マドンナが、立ち上がってそのまま固まっている。僕は少し遅れて立ち上がりながら、マドンナの視線の先をたどった。そこには、真っ白なカシミアのコート、真っ白な革手袋、真っ白なマフラーといういでたちの中年女性が立っていた。胸には高価そうな黒い小型犬を抱いている。
賃貸アパートやマンションを中心に紹介している我が社に、こんなセレブが来ることは、いまだかつてない。いったいなんの用かと、僕がアプローチの仕方を迷っていると、その女性は犬を抱いたまま、すべるように僕に近づき、胸のネームプレートを確認すると、「あたくし、駅前歯科クリニックの家内でございます。うちでは、防火管理者になってくださる方がひとりもいらっしゃらないので、あたくしが、させていただくことになりましたの。ほとんど毎日、奥で経理をしておりますので、あたくしでも、よろしゅうございましょ。」と、微妙なザーマス言葉で僕に言った。「よ、よろしゅうございますとも。あ、いや、お願いします!」。思いがけない立候補もあったが、これで、全テナントの防火管理者が出揃った。
ところで、彼女が毎日出勤しているということは、あの犬も…。契約書にペットの飼育禁止はあったが、ペット連れでの出入りの禁止を、明記してあったか確認しないと。

消防豆知識

消防計画とは

防火対象物やそこに入っているテナントが、火災を予防したり、火災が発生した際に、被害を最小限にするために計画をたて、職場内の全員に周知、実行させるもので、防火管理者が作成する。

<消防計画に定める主な事項>

●消防計画の適用範囲
●管理権原者及び防火管理者の業務と権限
●自衛消防組織
●火災予防上の自主検査
●消防用設備等の点検・整備 避難施設の維持管理
●防火上の構造の維持管理
●収容人員の適正管理
●防災教育
●自衛消防訓練
●自衛消防活動
●消防機関との連絡等
●工事中における安全対策
●防火管理業務の一部委託
●営業時間外等の防火管理体制
●放火防止対策
●震災対策
●管理権原の及ぶ範囲(管理権原の分かれている建物の場合)

■このコンテンツは、NBS取引先の不動産会社、防火管理者の方、テナントの方のアドバイスを受けて制作しています。
物語はフィクションであり、より内容の濃い情報を提供するため、防火管理者の活動をデフォルメしています。ご了承ください。