NBSの連載小説 第一弾

Episode 4  不測の事態(4月某日・雨)

僕は雨男だ。ここぞと言う時、必ず雨が降る。管理組合理事候補のクジを引き当てた日も雨だった。そして、4月の最終土曜日に開かれた管理組合総会の日も朝から雨が降っていた。

 僕の住んでいるマンションは全部で696戸の部屋があり、普通にカウントすれば696人の管理組合員がいることになる。が、賃貸住宅として運用されていたり、販売中で空き家になっていたりで、居住している総会員数は、600人に満たないそうだ。そのうち公民館のホールに集まった人数は100人ちょっと。正直に言えば、僕が総会に出るのも、今回がはじめてだった。それなのに、「自分の住まいのことなのに、みんな感心ないな~」などとと、優等生的な考え方になっている自分に驚く。

総会は式次第にそって順調に進み、最後に新役員が名前を呼ばれ、起立してお辞儀。1/5の住民の拍手と、欠席しているその他大勢の住民の委任状で、僕たち新理事は無事承認された。


不測の事態はその翌日にやってきた。早朝の平和な静寂を引き裂くように鳴る電話に起こされた僕は、夜中に赤ちゃんの世話をしている奥さんを起こしたくなくて、電話の子機にスライディングするような勢いで電話に出た。
「ふ、ふぁい、ぼ、僕ですが」昨夜の総会打ち上げで飲んだ酒がまだ残っている。
「あ、僕さん?」理事長の声だった。「起こして申し訳ない。1Fのエレベーターホールがすごいことになってるんです。すぐ降りきてもらえますか?」僕の返事も待たず理事長が電話を切ったことが、緊急事態であることを物語っている。僕は、パジャマにしているくたびれたスエット姿のまま、サンダルをつっかけて、現場に向かった。

エレベータのドアが開いた瞬間。僕は反射的に、Tシャツの裾をまくり上げて、鼻と口を覆った。後にこの行動は理事の間で、さんざん笑われることになるのだが、僕は、一瞬何者かが危険な薬物を散布したと思ったのだ。エレベータホール一面を覆う、ピンクの粉末。それが消火器の薬剤なんて、一目でわかるほうが珍しいと僕は思う。
「 すみませんね。朝早くから。誰かが消火器をいたずらしたらしいんですよ」と理事長が僕に言った。Tシャツを抑えていた手を瞬時に離し「やられましたか」と、そんなことはとうに知っていた風を装うが、完全にバレバレなのは理事長の笑いをかみ殺しているような表情を見ればわかる。「日曜なので、清掃の人も来ないし、住民が起き出して、粉を踏んでエレベーターや廊下を汚す前に、掃除しようかと…。他の理事や自治会の役員もじき来ると思います」そう言いながら、理事長は僕に箒とちり取りを手渡した。
 消火器の粉を掃き集めてはゴミ袋にいれる作業は、そんなに簡単なものではない。細かな粒子の粉は、ホールのタイルの凸凹に入り込み、何度掃いても、ピンクの雷おこしのようになっているまま。そこで、掃除歴40年といった感じの女性自治会副会長が、「水で流してしまいましょうか」とバケツの水をまこうとした瞬間。「ちょっと待ったぁ!」と理事長がそれを制した。手にはファイルを持っている。何年か前に、同じようないたずらがあり、その日のことを報告した理事会の議事録だった。そこに、「水を流してしまったので、やっかいなことになった。消火器が設置されていない状態になるので消防設備点検会社に電話した」と書かれている。日曜日の早朝に、電話なんてつながるのだろうか…。と思いながら、僕はさっそくその会社に電話してみた。
 「おはようございます!●●●です!」意外にも元気な声の女性が電話に出た。「あの~●●マンション管理組合の僕と申します」、「お世話になっております!どうされました?」。この「どうされました?」の一言こそ僕が今朝からずっと聞きたかった言葉だ。昨日防災担当理事なったばかりなのに、今朝は早朝から他の役員に聞かれてばかり、「粉の成分は何なんですか?」「吸っても大丈夫なの?」「これは燃えるゴミかしら」などなど、「知る訳ないじゃないか!」と答えたいのをこらえて、ずっと曖昧な返事をしてきた僕は、確かな知識を持っている電話の相手にすがるような気持ちで、今の状況をぶちまけた。
 そして5分後、僕は自信に満ちた足取りで事件現場に戻った。手には、倉庫から持って来たブロワー(風を送って落ち葉などを清掃する機械)と、屋外用の掃除機を持っていた。2つの機械で、掃除はぐんぐんはかどった。掃除後「消火器の薬剤は、重炭素ナトリウム又はリン酸アンモニウムで、吸っても害はないんです。集めた粉は回収してくれるそうなので、ここに置いておいてください」とにわか仕入れの知識をひけらかしているとき、作業服を着た女性がやってきた。消火器を携えたその女性の名刺には「消防設備士」と書かれていた。

■このコンテンツは、NBS取引先の管理組合、自治会の理事・役員の方のアドバイスを受けて制作しています。物語はフィク
  ションであり、より内容の濃い情報を提供するため、理事の活動をデフォルメしています。ご了承ください。