NBSの連載小説 第三弾    僕シリーズについて

Episode7 はじめての資格

 「ほらっ!また、目をつぶったっ!」
この言葉を聞くのは、これで3度目だ。1度目より2度目、2度目より3度目の方が、怒りの含有量が確実に増している。
 「…ったく…」と口をとがらせ、デジカメの写真を削除しようとうつむく瞳には、長い睫毛が完ぺきな弧を描いている。眉骨に沿った弓型の眉毛、丸くカーブした額にパラリと落ちる艶やかな前髪…事務方の先輩は、何度見ても驚くほど美しい。
 「何見てんのよっ!」デジカメに視線を落としたまま先輩が言う。語尾の「っ」に込めた怒りは特盛りだ。
 「すすすいません!」。美しい。そして怖い。
 先輩が撮っているのは、受験票に貼る僕の写真。乙6の試験日が迫っていた。先輩は、その後撮った写真の中から、かろうじて使えそうな1枚を選び、写真用紙にプリントして指定サイズにカットし、受験票に貼ってくれた。「あたしも受かったんだから大丈夫よ」という言葉を添えて。美しい、怖い、そして優しい。

 消防設備士乙種6類、略して「乙6」は、消火器を扱うための資格で、消防設備士の登竜門と言われている。試験は、消防法令、機能・構造、機械の基礎知識、に関する出題が30問、実技(記述式)が5問で、いずれかの科目が40%以上正解していないとその時点で不合格となり、以降は採点もされない。合格となる基準は、合計で60%以上の正解。最近の合格率は、40%程度だった。

 「5人中3人が落ちるのか…」。
 6月第2週の日曜日、僕は試験センターの座席で試験開始を待つ人々に囲まれて座っていた。受験者は男性が圧倒的に多く、年齢層の中心は20代~40代。学生らしき若者たちやシニア世代も若干いる。
 痛いくらいの静けさの中、受験者たちの顔を見回していると、周りが全部受かりそうな人に思えてくる。
「学校の受験みたいに成績優秀者から受かるんじゃなくて、60%以上得点したら合格になるんだから、周りとの闘いじゃなくて自分自身との闘いだよね」。嫁にそう言われたのは、1カ月程前だった。「業界経験が浅いから不利」とか「理系には勝てない」とか「現役学生にはかなわない」などと、「受からない理由」を並べていた僕の努力のエンジンギアを「前進」に変えてくれた一言だった。普段言葉数が少ない嫁の意見は、いつもずっしりと重たくて、疑いようもなく正しい。

 試験が終わって会場を出ると、僕はまっすぐに一番近いカフェに向かい、ノートを開いた。出題傾向を社長の著作のテキストに反映するため、受験するときは誰もが出題内容を提供することになっている。不合格だったとしても役立てるのならば…そう思いながら書きはじめると、すらすらと問題を思い出せ、かなり正解しているように思えた。
カフェを出ると、外は雨。スマホに「関東梅雨入り」のニュースが飛び込んで来る。以前の僕ならきっと「ついていない」と思っただろう。梅雨があるから大地が潤い、作物が育つ。初夏の雨を心地よく浴びながら、僕は、自分の視野が少し広くなったことを感じていた。

 1カ月後のネットの合格発表では、正午の発表時間に合わせ、僕はトイレに立てこもった。その時間会社にいた先輩たちが集まって、僕の受験番号を確かめているはずが、静かすぎる。「まぁ、次もあるよ…」「がんばってたのにね」そんな声も聞こえてきて、慌ててドアを開けると、一斉に拍手が沸き起こった。「おめでとう!」中央で社長がニコニコ笑っている。結果は、法令100%、機能・構造100%、基礎知識90%、実技75%の正解。予想以上の得点より、僕はただただ受かったことに安堵して、「よかった!よかった!」を繰り返すばかりだった。

 「消火器の点検にまいりました。私、こういうものです!」
 ドアを開けた嫁に、消防設備士のカード型の免状を掲げて見せる。合格発表の日から、約1カ月がたっていた。
 「良く見せて!」嫁は、首から下がっている免状ごと僕を家に引き入れて、明るいリビングの灯りの下で、カードスリーブから免状を取り出した。取り出す前に、エプロンで手を拭いたくせに、涙をぽろぽろこぼしてしまっている。その顔を見て、僕の涙腺が堰を切ったことは言うまでもない。


■このコンテンツは、特定のスタッフを描いたものではなく、全員の経験をもとに書き起こしたフィクションです。NBSの社風に関しては、かなり忠実に描いています。